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東京地方裁判所 昭和27年(刑わ)2468号 判決

被告人 川田勝次 外三名

主文

被告人等はいづれも無罪

理由

本件公訴事実は「被告人川田勝次は国鉄日暮里駅予備助役にして昭和二十七年六月十七日午前八時三十分より助役事務の代行をなし同日午後五時頃より翌十八日駅長出勤迄駅長代理として他の業務と共に同駅構内における旅客の来往に注意し之に対応する処置をなすべき業務に従事していたもの、被告人中山鹿之助は同駅助役にして同月十七日午前八時三十分頃より非番となり居りたる処翌十八日午前六時三十分頃駅長代理たる相被告人川田勝次より呼出を受けて出勤し爾後職制により同人の下部に入り右川田を補佐し同人と共に前記の如き業務に従事していたもの、被告人粒良秀雄は国鉄上野建築区長にして同区所属員を指揮監督し前記日暮里駅南跨線橋を含む同建築区に属する建物等の保守に関する業務に従事していたもの、被告人塩幡勝一は同建築区田端分区長にして相被告人粒良秀雄の指揮を受け前記跨線橋を含む同分区に属する建物等の保守に関する業務に従事していたものなるところ、被告人川田勝次は同月十八日午前五時三十分頃東京鉄道管理局運行指令よりの連絡で当日午前一時三十分頃生じたる上野地平信号所の火災事故により平常停車せざる上り列車が日暮里駅に停車することとなりたるため、かかる場合は朝のラツシユ時に混雑する南跨線橋は右列車よりの降車客の通行も加わり常時より混雑し更に同跨線橋西側側壁附近は特に混雑することが予測され、被告人中山鹿之助も前記の如く右川田の呼出を受けて同人より右事情を聞知し居り、両被告人とも右の如き状態を放置するときは同跨線橋自体の狭隘に加え右側壁は既に建造後約二十五年を経過し且腐蝕部分も存在する等の状態にあるため押し合う通行客の人圧により右側壁がはづれ人が転落する等の事故を惹起する虞ある故、被告人川田勝次は駅長代理として整理員をして右通行客を整理誘導せしめ、被告人中山鹿之助は右川田を補佐する立場上同人に対し適切な進言をなし前記の如き整理誘導の方法を計る等事故を未然に防止すべき夫々業務上の注意義務があるのに拘らず之を怠り、さしたる混雑なきものと軽信し前記側壁附近における通行客の整理誘導をなさずして漫然放置していたため、同日午前七時四十五分頃国電常磐線及び山手、京浜線の乗換乗降客の他午前七時四十二分臨時停車の高崎発上野行列車よりの降車客も加わり通行客が一時に前記南跨線橋に殺到するに至るや前記西側側壁附近に非常なる混雑を来たさしめ多数の通行客をその側壁に接触圧迫するに至らしめ、被告人塩幡勝一は日暮里駅南跨線橋が前記の如く建造後約二十五年を経過し且狭隘にして西側側壁は外部より目撃される部分にさえ腐蝕がある等構造上の条件に加えその側壁附近はラツシユ時には通行客のため混雑し、ために人圧がその側壁に加わることは容易に予測される故右の如き構造及び通行の点を充分検討すれば特に混雑する際は人圧により前記側壁がはづれ人が転落死傷することも予想さるべきであり従つて同側壁は保守上危険な箇所というべく同箇所の監視に当りては同側壁を支える外側の主要構造部につきその腐蝕状態及びその他効力を減少せしめる欠陥の有無等を調査するため単に巡回のみならず一般点検をなし且又区長に連絡の上細密点検をなし腐蝕その他修理を要する箇所なきや否やを確認しその結果、不完全な箇所を発見したる場合には直ちに区長に連絡すると共に適切なる修繕を加え以て前記の如き事故を未然に防止すべく万全の策を講ずべき業務上の注意義務があるのに拘らず之を怠り単に一ヶ月約三回に亘り内側より単身手にて押し外側を覗きみる等の巡回をなしたのみでその他何等の処置をも講ぜず放置し置きたるため前記側壁の主要構造部たる添柱のボールト孔の腐蝕拡大、胴椽の寸不足、飼物の不挿入等約三百四十瓩の内側よりの加圧により容易に該側壁が脱落する程度の重大な欠陥あるに気付かず、被告人粒良秀雄は管下分区長のなした保守状態を検討するため、更に監視する職責を有する立場上前記の如く保守上危険な前記側壁については自ら精密な調査をなすべきは勿論相被告人塩幡勝一に対し一般点検及び細密点検をなすべき旨の指示を与えその結果、不完全な箇所を発見したる場合には直ちに之に改修を施し以て前記の如き事故を未然に防止すべく万全の策を講ずべき業務上の注意義務があるのに拘らず之を怠り単に一ヶ月約一回に亘り内側より単身手にて押す等の巡視をなしたるのみにてその他何らの処置をも講ぜず放置し置きたるため前記の如き重要な欠陥あるに気付かず、為に、前述の如く整理員の整理誘導なきため南跨線橋西側側壁附近が混雑し押された通行客が同側壁を圧迫するに至るや側壁を支える主要構造部たる添柱を前記の如き欠陥のため容易に廻転せしめ胴椽羽目板を急激に落下するに至らしめ、因つて同月十八日午前七時四十六分頃同所通行中の石井啓子、須永利四雄、相川初子、石川ハル、笠木誠夫、鴻野藤二、石鍋昭英、古田光平、斎藤修司、小坂洋一、青木大和、植竹秀吉を高さ約五米九十糎の右破損箇所より山手線十番線路上に落下せしめ折から同線路を進行して来た東神奈川発京浜電車に激突せしめ、石井啓子を頸部轢断創により、須永利四雄を頭蓋骨々折及脳損傷により、相川初子を腹部轢創により即死するに至らしめ、石川ハルを頭蓋骨々折及頸部損傷により同日午前八時十分頃、鴻野藤二を頭蓋底骨折により同日午前九時頃いづれも東京都台東区中根岸町二四番地下谷病院にて死亡するに至らしめ、笠木誠夫を頭蓋骨々折により同日午前八時十五分頃同区入谷町二〇一番地淡路病院にて死亡するに至らしめ、石鍋昭英を頭蓋底骨折及脳損傷により同日午前八時三十分頃、古田光平を頭蓋内出血により同月二十日午前零時四十五分頃いづれも同都文京区本富士町一番地東大病院にて死亡するに至らしめ、斎藤修司に左側頭部裂創、頭骨々折、頭腔内出血等により加療約二ヶ月、小坂洋一に上顎右側歯槽突起骨折により加療約三ヶ月、青木大和に脳震盪、左上膊骨内骨折等により加療約一ヶ月半、植竹秀吉に左眼眥部打撲裂創、左肩頭部右第一指打撲傷等により加療約三週間を要する傷害を負わせ、前記十番線ホームにて待合せ中の中島延子に落下した木材の破片を激突せしめ、同人に左側胸部背部左肘関節打撲傷にて加療約四週間の傷害を負わせたものである」というにある。

依つて案ずるに、昭和二十七年六月十八日午前七時四十四分三十秒頃国鉄日暮里駅南跨線橋西側側壁の一部が破損したこと、その為同所を通行していた前記石井啓子外十一名のものが十番線路側に落下して死傷したこと、同ホームに待合せていた中島延子が落下した木材の破片にて傷害を蒙つたことは、被告人等の供述、八十島信之助作成の死体検案調書(三通)石川栄吉作成の同調書(四通で内一通は謄本)吉村三郎作成の同調書謄本、淡路周吉作成の診断書(三通)大井清作成の診断書、石森彰次作成の診断書、証人岡島乙彦、同山田欣次の当法廷に於ける供述により明らかである。依つて被告人等の責任について順次審究する。

第一、事故現場の構造。

本件事故は国鉄日暮里駅南跨線橋の西側々壁の破損であるが、該跨線橋は昭和三年中に竣工(昭和二十七年六月二十日附東京鉄道管理局施設長の回答書)したものであり、その橋体は鉄材を組立て、階段及び通路の床はコンクリートを打ち、階段及び通路の両側は鉄材、添柱、横木、羽目板を用いて壁となし、上方にはコンクリートの屋根を取付け、東側側壁の外方には鉄材が取付けられてあるが、西側側壁の外方にはかかるものは取付けてなく、該西側々壁の構造は別紙第一図の如くであり、その両側の鉄材(古レール)と添柱、横木、羽目板の組合せは別紙第二図の如くであることは検証調書並松下清夫作成の昭和二十七年七月二十五日附鑑定書(以下松下第一鑑定書と略称す)並黒田章撮影の現場写真(20)(21)市毛昇撮影の同上(10)により認められる。即ち、該側壁は固定せる鉄材(古レール)を基幹とし、これにボールトを以つて添柱を結着せしめ、両側の添柱に横木を掛らしめて取付け、その横木の内側に羽目板を打付け、その下部を巾木にて止めたものである。

第二、事故現場の側壁破損の状況並側壁の欠陥。

証人岡島乙彦は、自分の運転する電車が日暮里駅ホームの南端に入つたので常用制動をかけてから前方を見ると跨線橋の側面の真中辺が膨んだようになり、その部分が分解するように感じたと同時にバリバリという音がしたと証言し、証人植竹秀吉は、山手線ホームへ下りる階段え行く曲り角の板塀の処まで押されて来ると西側の板塀がメリメリと音がして壊れ落ち、私も押されて下に落ちたと証言し、証人石鍋昇は、押されるようにして階段の上まで来たので南角の柱に手をつかえて体を支えていた、後より押したり押し返したり二・三回したが一時強い力で押して来た時メリメリと音がして羽目板が落ちた、その時私の右肩に後より力がかかつたので体が廻つて左向となつたと証言し、証人青木大和は、橋をやつと渡り切り右に曲ろうとすると後から押されて曲る事が出来ず二、三人前の人は突当りの板壁に押され大学生らしい人が大声で押すな押すなと叫んだ、すると突当りの板壁がメリメリと音を立てたと思うと二、三人の人が落ちた、私も落ちそうになり一歩右に寄れば階段につかまれると思い努力したが後から押される力に支え切れず続いて落ちたと証言し、証人諸井悠章は階段の上のところの隅に押しつけられて、羽目板の方を向いている早大生の横にいた、後方からグーツと押されて目八分位のところの羽目板が外にそつてパリツと音がしたが階段の方から押上げたのでそつたのが元に戻つたが、又後から押返したので羽目板が外れて早大生は落ちた、私は外側を向いたまゝ背中をするようにして落ちたと証言した。これらの証言からすれば、該側壁は内部よりの人圧によつて破損したことが認められるが、証人諸井悠章は羽目板の上の方はついていて、下の方が開いていたと思うと証言し、証人大塚輝夫は直後に破損したところを内側より見たが巾一間位、高さ五尺三寸以上の穴があいて先方の土手が見えたと証言し、証人進藤政次は第一、二回を通じて、当日午前八時十五分頃事故現場に行つて見たが、田端寄りの羽目板が四、五枚目から二枚外れて穴となり、更に二枚が上の方はついていたが下の方が一尺位外側に外れていた、田端寄りの添柱は外方に捩れていて、胴椽(横木)は下(土台の上のもの)から三本位までは添柱より外れて居り、四本目は少し外れ、五本目は付いていた、横木は一尺か八寸位外方に外れていて、引戻そうとしても添柱の外側の角に当つて戻らなかつた、上野寄りの添柱には異状はなく羽目板も上、下とも付いていたと証言し証人山口三之助は第一、三回を通じて、当日午前八時四十五分頃事故現場に行つて見たが、羽目板は田端寄りの三、四枚目の二、三枚が外れていた、添柱は田端寄りのものが外方に捩れその角度は、下から二本目の添木のところで十一、二度であり、横木は下から三本まで外れ、四本目は一寸外れて居り、その木口が添柱の欠込の角に当り(木口は角より外に一寸五分、内に一寸位となる)あと二、三回もめば外れたと思われる程で、五、六本目は外れていない、上野寄りの添柱には異状なかつたと証言して居り、これらの証言と市毛昇撮影の現場写真(8)、(10)、(13)並黒田章撮影の現場写真(20)、(21)及び証人山本輝男(第四十五回)の証言並同人の提出したる「日暮里駅南側跨線橋西側妻添柱取付現寸図」(第四十五回公判調書添付)とによれば、田端寄り即ち北側の古レールと添柱と横木との接着に障害を生じた為に破損したものと思われるのである。松下第一鑑定書並同人の証言(第十六回…公判回数である、以下同じ)近藤泰夫作成の鑑定書(以下近藤鑑定書と略称す)及び押収に係る檜の柱一本、米松の胴椽六本、米松の羽目板一束(昭和二八年証第五二九号の一、二、三)によれば、該側壁北側部分には古レールと添柱と横木との接着状態について(一)横木との接着部分である添柱の切込の深さは十四粍乃至十六粍である為添柱の廻転角度約十八・五度で横木が脱落する状態であつた(二)横木と添柱の接着部には二寸釘が一本打込んであるが、これは横木の脱落を支えるものとしては余り役に立たないが、その釘は発錆著しくて殆んど強度を有しなかつた(三)横木の長さが、北側添柱の切込の底部と南側のそれとの間隔に比し短い為、田端寄りに於いて横木端の切込部分えの掛りが少くなり、横木に外力を受けた場合には添柱の廻転を容易ならしめる状態であつた(第三図)(四)添柱は鉄材(古レール)に三本のボールトを以つて結着せしめられているが、該ボールトは直径九粍であるところ、添柱のボールト孔内部に位置した部分は発錆の為減粍し最少六粍となつているので、引張、曲げに対する抵抗を減少し、横木の支持力低下に幾分影響ある状態であつた(五)右添柱のボールト孔は内径約十八粍でボールトの直径に比して大きいのみならず、口許は腐蝕して拡大し最大内径二十六粍になり、添柱の廻転を容易ならしめ、従つて横木脱落に対する抵抗を減じていた(六)ボールトは鉄材である古レールの頭部に近く位置している程外力により添柱の廻転能率を少くし、ボールトの支持力を有効に利用し得るのであるが、本件ではボールトはレールの脚部に近く偏していた(第二図)(七)右鉄材である古レールの脚部外縁と添柱との接着部分に於いて添柱に段形の切欠を設けず、丁鉋で斜弧形に削り落して取合せたのみ(第二図)であるから、外力(横木に加えられた力が添柱の内側に伝わる場合も同じ)により接着部が滑り易く添柱の廻転を容易ならしめる状態にあつた(八)右鉄材が古レールである為、それと添柱との間には間隙が生じているが、その間隙がある為に添柱の廻転を阻止することが出来ない状態にあつた(第三図)等の欠陥のあつたことが認められるのである。

依つて、前記添柱と横木との接着状態の欠陥と破損との関係について審究する。

(一)(三)について。松下証言(第二十九回、第四十二回、第四十五回)近藤鑑定書並同人に対する尋問調書(以下近藤証言と略称す)によれば、横木は添柱の廻転を妨ぐ為のものではないが、仮に添柱の切込の深さを三糎位(近藤証言は二糎以上という)にすれば、本件の如き横木の脱落は生じなかつたことが認められるがかくする為には本件の用材より大きい添柱(レールを包む位のもの)を使用する必要があるので、普通の施工では後記のような飼物を入れることによつて、添柱の廻転防止措置をなすのが例であること、及添柱の切込一パイに横木が挿入されていたとすれば添柱の廻転を防止し横木の脱落を阻止し得るであろうが、通常の施工としては両添柱間一パイとなる横木を使用しないで幾分短目のものを使用するのが例であることが認められる。

(二)について。松下証言(第四十五回)近藤鑑定書並同人の証言によれば、横木と添柱の接着部の二寸釘は横木の脱落を防止する為よりも、それが横に移動することを防ぐのが主たる目的であるから、本件のように横木が寸不足の場合には添柱が廻転すればその切込の底部で横木は反対方向に押しやられるので、かゝる施工では添柱の廻転防止措置のなされていない限り横木の脱落防止の為には釘を打つこと自体効果的でないことが認められる。

(四)(五)(六)について。松下第一鑑定書並同人の証言(第二十九回)及び近藤証言によれば、ボールトは鉄材と添柱を緊締することを目的とするものであるから、ボールト孔の大小は余り問題ではなく、ボールトの大小が問題となるのであるが、本件ボールトの直径は九粍で一五〇〇瓩位の引張強度を有して居り耐力に不足はなく、右欠陥を補うことによつて添柱の廻転に幾分抵抗し得ても、本来添柱の廻転防止の措置としてボールトが使用されているのではないから、この欠陥を事故原因として取上げることは正当ではなく、若しボールトの点を取上げるとすれば、緊締自体に弛みがあつたかどうかであるが、該緊締に弛みがあつたと認むべき事情のないことが認められる。

(七)について。松下証言(第二十九回)及び近藤鑑定書並同人の証言によれば、跨線橋の内側に加わる外力は羽目板より横木に伝わり、更に添柱の内側切込にかゝるのであるから、この外力を支えるものは、添柱の脱落を防ぐボールトと、添柱の廻転を阻止する添柱外側の切欠である。従つて本件に於ては添柱の外側即ち古レール脚部外縁に接着する部分に廻転を阻止する段形の切欠が設けてなかつたことは、本件事故の原因として認めらるべき施工上の欠陥があることが認められる。

(八)について。(七)について記述した如く、本件事故は添柱の廻転を阻止すれば防止出来たのであるが、松下第一鑑定書、近藤鑑定書、並同人の証言及び証人渡辺寅雄の供述によれば、側壁に受ける外力を最終的に受けるものは鉄材であるが、それが古レールを利用したものである為、古レールと添柱との結着には特に留意すべきであり、特別大きい木材を用いた場合の外は古レールの頭部と脚部の間にある窪みに添柱が滑り込まぬよう措置せられることが必要であり、本件事故の原因としては前記段形の切欠を設けなかつたことより、添柱と古レールとの間に飼物を入れなかつたことの方が重大であることが認められる。

第三、事故現場なる側壁に存した欠陥の探知。

本件側壁に存した前記欠陥を事前に探知し得るか、否かについて按ずるに、(一)の切込の深さ、(三)の横木の寸不足の点については、横木と古レールの頭面と添柱の切込の底面との接着状態を些細に点検すれば明認し得ることは構造上明らかであり(被告人塩幡の検察官に対する昭和二十七年七月三十一日附供述調書)(四)(五)(八)の点は松下第一鑑定書並同人の証言(第十六回)及び近藤証言によれば、すべて隠れたるもので外見上は勿論通常の点検では認め得ないものであり、(六)(七)は外見上容易に認知し得る(被告人塩幡の検察官に対する同月二十九日附供述調書)ことは構造上明らかである。

第四、被告人粒良秀雄、塩幡勝一の注意義務と本件側壁に存したる欠陥の探知との関係。

本件事故当時被告人粒良は日暮里駅を管轄する上野建築区々長であり、被告人塩幡は同駅を管轄する田端建築分区々長であつたことは、同人等の供述により明らかであり、本件事故当時跨線橋の側壁が建築区の所管に属していたことは昭和二十七年六月二十日附東京鉄道管理局施設長回答書添付の「保線区建築区の業務分担について」(2)並証人片山隆三、佐藤貞吉、和仁達美の供述により認められるところである。而して「現業機関の名称及び担当業務に関する規程」(昭和二十五年十一月二十四日総裁達五五〇号)並「建築区従事員職制及服務規程」(昭和二十年四月二十七日達二五四号)によれば、建築区長は「鉄道管理局長の指揮の下に『所属員ヲ指揮監督シ建築区ニ属スル一切ノ業務ヲ処理ス』るもので、その業務とは『建物及び附帯設備の保守及び施工並びに建物用地のうち飛地の管理に関すること』であり、その業務遂行に当つては『建物並ニ其ノ附帯設備ノ保守及工事施行ノ状態ヲ詳細ニ視察シ其ノ材料並ニ人員ヲ考慮シ適切ナル手配ヲ定メ保守ニ欠陥渋滞ナカラシムル様遺憾ナキヲ期ス』べきもの」であり、建築分区長は「建築区長の指揮の下に『担当区域内ニ於ケル建物ノ保守及施工に従事ス』るもので、その業務遂行に当つては『常ニ担当区域ヲ巡回シ其ノ保守ノ業務ヲ督励シ作業ノ過程及順序方法ヲ指示』し、又『其ノ担当区域ノ建物其ノ他保守ニ関スル事項ニシテ重要又ハ異例ナルモノニ付テハ其ノ要領ヲ区長ニ報告ス』べきもの」であることが認められる。右建築区長並同分区長の業務内容である「建物の保守、施工」につき、昭和二十七年七月二十三日附東京鉄道管理局長の回答書によれば、保守とは(A)管理の対象物を監視すること(B)管理の対象物を本来の目的に適う様に現状を維持することであり、右(A)の監視は(1)管理の対象物につき巡視、点検等をなし、若し不良のものを発見したときはその旨を上長並に関係者に通知すること(2)不良状態が突発して列車運転に危険を及ぼす虞れがあつて上長の指揮を仰ぐいとまのない時にはそれに応急手当を施すことで、右(B)の現状維持は管理の対象物を人為的破壊や自然的破壊に対応して之を在来の状態に維持修復し、本来の機能を発揮せしむるようにすることで、その工事は常備定員を以て随時的になすものであり、又施工とは管理の対象物を其の本来の目的に適う様に、又は輸送量の増加、社会状勢の変化その他環境の推移に適合する様に、修繕、新設、改築等の工事をなすことであり、その工事には書類を作成し、それに従つてなすものである。尤もかかる解釈については何等規定されたものはないのであるが、一般的な建物管理と、一定の職種の者に如何様な事務を担当せしめるかということとは別個のことであつて、後者は国鉄内部の職務分担に関することであるから、その当局者の解釈にして故らに曲げたものと認められない限りその解釈に従うべきであるところ、松下証言(第十六回、第四十二回)近藤証言並証人渡辺寅雄の供述により認むべき建物の一般的管理方法と対比して考察しても前記回答は故らに曲げたものではなく却つて、一般的なものとしても妥当な結論であることが認められるのである。本件に於いて問題となるのは右保守についてであるが、前記の解釈に従えば、建物をして本来の目的に適う様にその現状を維持し、失われた効用を回復するのが保守の目的であり、その為には常時監視を怠らないことが必要となるのである。右松下証言、近藤証言及び証人渡辺寅雄の供述によれば、一般的に保守担当者が建物の現状を把握することは保守を全うする為に必要なことであり、設計書等のある場合にはこれを参酌し常に目で見たり、手又はハンマーで叩く等五感により外見的徴候を可及的早期に認知すべきであるが、建物の管理は、その建物が所定の目的の下に効用を充分に発揮し得るものとして設計、施工され、竣工検査を経て現存することを前提としてなさるべく、何等変状の認むべきもののない限り、事毎に隠れたる設計上又は施工上の欠陥の探索をなすが如きは、保守の内容とはならないことが認められる。従つて、設計上又は施工上の隠れたる欠陥を探索することは再度の竣工検査ともいうべきものであり、これを保守担当者に負担せしめんとすれば、そのことを明定しなければならないが、国鉄にはかかる定めはなされていないのである。然るところ、本来国鉄で設けられてある跨線橋は乗客等が線路を横断して移動する必要ある箇所に於いて、線路上に架橋し、その橋面を利用して移動せしめんとした工作物であるから、その本質は河川上の橋梁と異なるところはなく、本件の跨線橋もその一にして、主として乗客の通行路となるものである。従つて、その生命とするところは橋床に掛る垂直荷重に耐えることであつて、その構造は専らその点に重点が置かれ、次に流水に対する抵抗力のそれの如く振動や風圧による横揺を防ぐことに留意せらるべきものである。然らば跨線橋の側壁は如何なる効用を有するかというに、松下証言(第十六回)並証人渡辺寅雄、矢代祐三郎の供述によれば(一)風雨を防ぐこと(二)乗客の転落等の危険を防止することにあり、右(二)は河川橋の橋桁に比すべく、通常は内圧より外圧の方が大であるから右(一)に重点がおかれることが認められる。故に跨線橋の側壁についての保守はその側壁が外部よりの風圧に耐え得るかどうか、又内部よりの人圧に耐え得るかどうかという点についてなさるべく、且それを以つて足るものと解すべきものである。

これを本件の事故原因について見るに、前記(四)(五)(八)の欠陥は隠れたるもので通常の点検を以つてしては外部より認め得ないものであることは前記第三で認定したところであるから、その他のものについて審究する。前記(一)(三)の欠陥についてはやや高度の注意を持つてすれば認め得たものであることは松下証言(第二十九回、第四十二回)により明らかであるから、これを認めなかつたと供述する被告人粒良、塩幡の点検には欠くるものありといわなければならない。然し乍ら、松下証言(第四十二回)によれば、添柱が回転しないとすればその切込えの掛りは五粍位でも足りるものであり、その場合に横木が脱落するとすれば切込部分が欠損するか、横木自体が折損するか横木自体が折損する場合であることが認められるが、本件に於いては切込部分の欠損も横木の折損も認め得ないのである。又横木を添柱にかからしめるのは横木の脱落を阻止する為で、添柱の廻転を防止する為ではないのである。従つて、右欠陥を発見しなかつた点検上の不注意は本件事故との間に相当因果関係を欠くこととなるのである。又右(六)(七)の欠陥については容易に認め得るところであり、両被告人も亦これを認めたと供述している。然るところ、工作物は一体として観察すべく、独立したものでない限り、個々の部分を他と引離して観察すべきものではないから、これを他の部分との関係において検討するに、松下第一鑑定書並同人の証言(第十六回、第二十九回、第四十二回、第四十五回)近藤鑑定書並同人の証言及び証人渡辺寅雄の供述によれば、本件の如く鉄材(古レール)と添柱を結着せしめる工事に於いては古レールと添柱との間に空間がある為添柱が廻転することにより両者の結着状態を損う虞のないように該空間を填める施工のなされることが常識的(証人矢代祐三郎は飼物挿入の要はないと供述しているが右鑑定書並証言―渡辺証人は飼物がどうして挿入されてなかつたかと非常に嘆かわしいと思つているとすら供述している、に徴し措信し難い)であつて、前記(七)の段形の切欠の設けてないこと(八)の飼物の挿入又はそれに相当する措置のなされていないことは、いづれも施工上の欠陥というべく、この二点が満足すべく施工されてあれば(一)乃至(六)の欠陥は補われて事故の発生はなかつたことが認められる。被告人粒良、塩幡は前記(七)の欠陥は現認したが(八)の措置がなされていると信じていた為に何等の手当をしなかつたと供述したので、此の点につき按ずるに、松下第一鑑定書並同人の証言(第十六回、第二十九回、第四十二回、第四十五回)近藤鑑定書並同人の証言及び証人渡辺寅雄の供述によれば本件の如き工事に於いて飼物を挿入せず段形の切欠のみをなしても添柱の回転を防止し得るが、その場合には添柱を大きく(レールを包む程度)し、切欠も横木の掛りとの関係に於いて平均するようになすべく(この場合の横木の掛りは添柱の回転阻止をも目的とする為三糎位を要する)施工しなければならない為に、飼物を挿入し切欠を第二次的補助的(この場合は切欠はなくても添柱は回転しない)のものとなすのが施工上の常識であり、切欠が不完全なものであることは却つて飼物の挿入されていること即ち古レールと添柱との間に空間のないことを推認すべき事柄であることが認められ、又証人山本輝男の供述(第四十五回)並現寸図によれば、本件側壁の上野寄り即ち破損しない部分の添柱には(八)の飼物を挿入したと同様の施工(第四図)がなされていたことが認められる。従つて、右両被告人が右(七)の点を欠陥と認めず、これが是正をなさなかつたことは、責むべきではないのである。(松下証言((第四十五回))によれば内圧が側壁の一方に片寄つて加えられた場合にはその一方に内圧が多く加わることになるが、本件に於いては内圧が階段に近く即ち田端寄りに多く加わつたことは後記第七に挙げた証言によつて推認し得るのであるから、若し添柱にして上野寄りのものと、田端寄りのものとが交替した如き施工であつたとすれば、或は事故は軽微なものに止つたとも推測し得るところであり、本件事故は右(八)の飼物不挿入の欠陥の一点に因り生じたというも過言ではないのである。)検察官は本件跨線橋の側壁に腐蝕部分があつたのに拘らずこれが改修をしなかつたことを指摘しているから、この点について按ずるに、昭和二十九年四月十二日附東京鉄道管理局長回答書添付の日暮里駅長提出の「二七年度施設保守費による希望工事調」には、順位(3)として跨線橋(南部)につき「全面修理並硝子戸の設置」を要求し、その理由として「現在南部跨線橋は硝子戸なく、通行の旅客が風雨のさい非常に迷惑して居る。尚羽目板、土台柱(木柱)等甚だしく腐蝕している」と記載されて居り、右回答書添付の昭和二十七年五月三十日附上野建築区長提出の「昭和二七年度跨線橋関係希望工事調書について」には「日暮里駅南北跨線橋屋根其他修」として屋根防水コンクリート、ペイント塗替、建具の修理等をなしたとの記載がある。押収に係る米松羽目板一束(前出)並松下証言(第四十五回)によれば専門外の者の観察としては右希望工事調の記載は一応肯けるものであることが認められる。(尤も押収に係る木片三個((前同号の八))が土台であるかどうかについては鑑定人松下清夫の第四十七回公判に於ける鑑定(以下松下第三鑑定と略称す)並証人小野安治、上条清の証言及びその形状に徴すればこれを否定すべきが如くである。然し事故直後に撮影された現場写真((市毛昇撮影の(10)(13)並黒田章撮影の(21)))によれば土台は事故後の現場に存せず、又押収の羽目板の下部即ち土台に接着していた部分が腐蝕していたこと、他の用材はすべて押収されて居ること等からすれば、土台は腐蝕しており破損して飛散した為押収されなかつたものと認むべきであろう)此の点について被告人粒良、塩幡は右希望工事調に基き現場を調査した結果一部には変色した部分を認めたが側壁の強度には支障ないことが判つたので修理しなかつたと供述した。依つて按ずるに、松下第一鑑定書並同人の証言(第十六回)近藤鑑定書及び戦後襲つた数度の颱風にも損害が生じなかつた事実よりすれば、風圧に対する耐力は十分に保持していたものと認むべきである。而して、内圧に対する耐力については、建物の壁体の耐力に関する規定がないので、跨線橋の側壁に最も近似せる河川橋の欄干に関する規定による外ないが、松下第一鑑定書並同人の証言(第十六回、第四十二回)によれば「道路構造に関する細則」(大正十五年、道路構造令による)第二四条には「欄干ニ作用スル推力ハ次ノ定ニ依ルベシ(1)一等橋ニ在リテハ欄干長一米ニツキ七〇瓩(2)二等橋又ハ三等橋ニ在リテハ欄干長一米ニツキ五〇瓩。前項ノ推力ハ欄干ノ頂上ニ於テ欄干ノ壁面ニ直角ニ働クモノトス」と定められ「鋼道路橋設計示方書案」(昭和十四年内務省国土局)第十九条には「高欄ニ作用スル推力ハ次ノ定メニ依ルベシ(1)車道歩道ノ区別ナキ場合一四〇瓩/(瓩/米)米(2)車道歩道ノ区別アル場合七〇瓩/米。前項ノ推力ハ高欄ノ頂上ニ於テ高欄ノ壁面ニ直角ニ作用スルモノトス」と定められているが、跨線橋は人のみが利用するのであるから、その側壁は七〇瓩/米の耐力を以つて充分なりとせられていたものと解すべきである。

(前記のものはいずれも旧道路法の下で定められたもので、新道路法の下では未だその定めなく、社団法人日本道路協会の定めたものに従つているのが実状であるが、昭和二五年右協会の定めた鋼道路橋設計示方書案第一九条は前記国土局のものと同一であり、昭和三一年の鋼道路橋設計示方書第七一条で初めて二五〇瓩/米と改定したのである。尚松下第一鑑定書、近藤鑑定書に引用せる東京大学教授福田武雄の論文―昭和二五年四月号土木学会誌によれば、アメリカでは、二二三瓩/米以上とし、ドイツでは、道路橋八〇瓩/米、鉄道橋五〇瓩/米、((但し一般に公開されている場合八〇瓩/米))一般の階段、バルコニー等五〇瓩/米、集会場、教会、学校、劇場、映画館、スポーツ場等一〇〇瓩/米と定められている。)

然るところ、本件事故当時側壁の保有していた耐力の数値については、昭和三十一年九月五日附国鉄副総裁回答書添付資料(1)「日暮里駅(南側)跨線橋の模型による実験(荷重)報告」によれば七四八瓩乃至九九四瓩の如くであるが、松下清夫作成の昭和三十一年十二月二十八日附鑑定書(以下松下第二鑑定書と略称す)並同人の証言(第四十二回)によれば、右実験に使用した木材は本件側壁の用材と同様に二十数年を経た米松材であるが、新に加工されたものであり、添柱とレール、添柱とボールト、添柱と横木との欠き合せ部の接合部に損耗、減り込、不馴染等が生じて居らず、接触部の摩擦力も減少していないので、右は実際よりはるかに大きい数値であると認むべく、松下第二鑑定書並同人の証言(第四十二回)近藤鑑定書並同人の証言によれば、事故当時該側壁の保持していた耐力は三四〇瓩位であり、側壁に加えられた内圧は四〇〇瓩内外のものであつたと推定すべきである。而して、該三四〇瓩は約一三六瓩/米の耐力であるから、欄干の推力に関する規定と勘案すれば壁体としては充分なる耐力を有していたと認むべく、松下証言(第十六回)近藤証言によれば腐蝕部分は破壊の危険感を抱かしめる程度のものではなく、単に外見上修理を可とする程度のものであつたことが認められるから、両被告人が変色部分(事実は腐蝕である)を認め乍ら側壁としての強度に支障なしとして修理しなかつたことは注意を欠くものでなかつたと認むべきである。(本件事故は四〇〇瓩位の内圧の反復加圧によつて惹起されたものであるからこれに耐えるには少くとも一五四瓩/米の強度を要したのである。然し乍ら後記(第五)の資料(2)によれば(一)背面より寄りかかつた場合は三、五瓩乃至八瓩(二)前面より寄りかかつた場合は五、四瓩乃至一〇、四瓩の加圧力であるからこれを混合した混雑時の側壁に対する加圧力を平均六、八瓩と推定すれば四〇〇瓩の加圧は五九人の人々が一齊に側壁によりかかることを要するのであるが、これは予想外の事態といわなければならない。)

更に検察官は本件跨線橋の東側外面には鉄枠が設けてあるのに拘らず西側なる事故現場にはこれが設けてなく、被告人等はこれを知り乍らその取付につき何等の措置をなさなかつた点を指摘する。該鉄枠が如何なる意味の下に取付けられたものかについては必ずしも明確とはいい得ないが近藤証言、証人片山隆三、渡辺寅雄の供述によれば右鉄枠は橋体の横揺を防止する目的であつたと推認するのが妥当である(佐藤貞吉作成の答申書は右証言に徴し措信しない)。証人小野安治、佐藤貞吉は該鉄枠と側壁外面との間隔は二、三糎位もある為本件の如く内圧により側壁が破損した場合には客はその間隙より落下し死傷事故を防止することは出来ないと供述するが、側壁自体は一挙に解体分散するものではなく、先ず先の一部分が破損し、これに応じてその破損部分が拡大するものであることは前記(第二認定)の如くであり、松下証言(第四二回)によれば三糎位側壁がふくらんだのでは横木は脱落しないことが認められ、又同人の供述(第十六回)によれば、該鉄枠が取付けてあつたとすれば本件の如く転落による死傷は生じなかつたであろうことが認められるのである。然し乍ら、斯様に鉄枠を取付けることによつて事故を防止し得るとしても、そのことからしては、必ずしも鉄枠を取付けるべきであつたとの結論には到達しないのであつて、かかる結論を容認する為には想定せられる内圧との関係に於いて側壁の耐力が弱い為に鉄枠の支持を要すべきであつたとの事情が存しなければならないのである。然るに、該側壁の耐力は施工当時充分であるとせられて居り、鉄枠はこれが補強の為に取付けられたものでないと認むべきこと前叙の如くであるから、(従つて、その所管は保線区となる―片山隆三、佐藤貞吉、和仁達美の証言)両被告人が、鉄枠取付について何等の措置を講じなかつたことはこれを責むべきではないのである。尚又両被告人は保守上の点検について左の点を考慮すべきであるかとの問題がある。即ち(一)本件跨線橋の西側側壁は将来延長する予定の為に粗雑なる施工がなされていたのではないか(二)羽目板等の腐蝕部分を修理すれば解体に近い取外しをなすことになるから前記の隠れたる欠陥殊に(八)の飼物不挿入の点が判明し、それらの欠陥を除去し得たのではないか(三)本件事故の決定的欠陥ともいうべき(八)の飼物の不挿入を探知するように細密な点検をすることも可能であつたのではないかという点である。依つて案ずるに(一)当裁判所の検証調書添付の写真(第二)近藤証言、松下証言(第十六回)及び証人渡辺寅雄、矢代祐三郎の供述によれば、本件跨線橋は西側に於いて将来山側まで延長することのあるべきを予想し、鉄材の一部が露出したままとなつていたことが認められるが、斯様な事情の為に故らに粗雑なる施工をなしたであろうと推察すべきでないことが認められるから、両被告人が斯様な疑を抱かずして点検をなしたことは不注意ではない。(二)羽目板等の修理をなすことに因して前記の隠れたる欠陥を認め得たであろうことは諒し得るが、これは偶然的な結果であつて、該欠陥を探索する目的の下に為さるべくして為されるものではないから、かかる結果が生じたであろうことからして羽目板等の修理をなさなかつたことを本件事故との関係において責むべきではない。(三)証人渡辺寅雄の供述によれば、添柱に釘を打つとか、錐で穴を穿つて見れば、飼物が挿入されてあるかどうか、即ち空間があるかどうかを探知し得るが、これは竣工検査の場合ならばいざ知らず通常の点検方法では行わないことが認められる。従つて、飼物不挿入を疑わしめる事情のない本件に於いては、かかる点検をなさなかつたことを不注意とはいい得ないのである。

更に検察官は被告人粒良、塩幡に「施工」の責務のあることより、本件跨線柱が竣工後二十四年を経過し老朽して居り、利用度も甚しく増大して居る為、改修施工をなすべきであつたと主張するが、前記の如く建築区長並同分区長の業務内容たる「施工」は建物をその本来の目的に適う様に、又は輸送量の増加等環境の推移に適合するように修繕、新設、改築等の工事をなすことであるが、かかる工事をなすことの決定は常に区長又は分区長が為し得るものではない。近藤証言並証人渡辺寅雄の供述によれば単に年数を経たということのみで、変状の認むべきもののないのに拘らず、全面的改修をなすが如きは通常の建物管理としてはあり得ないことが認められるから若し年数を経たことのみを理由として全面的改修の要ありとせんか、その施工決定権は予算措置をもなし得る首脳者にありといわなければならない。又利用度の増大ということは終戦後全国的な傾向であつて、これを理由とする改修は、新設と共に国鉄首脳者が科学的に検討し決定すべきことである。本件に於いても跨線橋の巾員を広めるなどの措置がなされてあれば事故は生じなかつたであろうことは容易に認め得るのであるが、その措置をなさなかつたことの責は挙げて首脳者の負うべきものであつて、一建築区長や分区長を責むべきではないのである。

これを要するに、国鉄に於いては、保守担当者の責務としては通常の点検により認知し得ない程度の隠れたる欠陥並施工上の欠陥の探索は含まれていないのである。即ち、対象物の変状は必ず顕現するか、通常の点検によつて探知し得るものであるとの前提に立つて保守がなされているのである。然るに、本件事故は前記飼物不挿入なる隠れたる施工上の欠陥に基因していたのであるから、その責を問わんとすれば(一)欠陥のある工事をなした施工担当者(二)右の欠陥を看過した竣工検査の担当者(三)建物の管理は前記の如き通常の保守のみで足るとし、定期的に保守担当者以外の専門係員による竣工検査的精密検査の施工等万全の方途を検討し、実施しなかつた国鉄首脳者でなければならない。若し保守担当者たる被告人粒良、塩幡にその責ありとせんか、前掲(第二)欠陥中主たるもの即ち(一)段形の切欠きを設けなかつたこと(二)飼物を挿入しなかつたことの施工上の欠陥はいづれも竣工当時より存していたものであるから、爾来事故発生までの二十四年間歴代の保守担当者に過失責任ありとなさなければならないが、かかる多数の人々が、長期間に亘り(一)につきその改修をなさず(二)につきこれを探知していないということは、却つてそれが保守担当者のなすべきものでなかつたことの証左ともいい得るのである。

第五、被告人中山鹿之助の当日の職責。

被告人中山鹿之助は当時日暮里駅助役の職にあり、事故当日たる昭和二十七年六月十八日午前八時三十分までは、非番であつたこと、同日午前六時過頃日暮里駅長の職務代行者たる相被告人川田勝次の呼出しに応じて出勤し、同人の指揮下にて勤務についたことは、被告人中山、相被告人川田の当法廷に於ける供述、昭和二十七年七月十九日附日暮里駅長作成の勤務表、証人渡辺藤吾の供述によつて認められる。

而して、運輸、運転従事員職制及服務規程(大正十四年四月十四日達二四七号)第一条には「予備助役ハ駅長、助役又は運転掛ノ職務ヲ代行ス」と定められているが「代行」の意味については、昭和二十七年七月二十二日附東京鉄道管理局長の回答によれば「代理」と厳密なる区別はないというのであるから、代理と理解せらるべく、

本件事故当日駅長事務を代行していた相被告人川田は日暮里駅長の職務を行うものである。然るところ、右規程第一条には「駅長ハ所属員ヲ指揮監督シ駅、営業所、操車場又は信号場ニ属スル一切の業務ヲ処理ス」と定められて居るから、相被告人川田は非番である被告人中山を呼出して勤務に就かしめることが出来るのである。この場合、駅長代理者たる相被告人川田は非番者たる被告人中山に担当すべき業務を指定すべきかというに、証人渡辺藤吾、郡司農衛(第三十一回)の供述によれば、日暮里駅に於いては、職員は交替勤務となつて居る為、非番職員が呼出に応じて出勤した場合には当該職員の本来の担当事務は他の職員が執つて居ることとなるのであるから、駅長はその職員の担当すべき事務を臨時に指定すべきであつて、かかる場合には、昭和二十四年四月十四日達一九四号「現業従事員を一時他の職務に従事せしめることができることについて」に従つて処置すべきものである。

本件事故当日相被告人川田が被告人中山に出勤を命じたのは相被告人川田の供述によれば、上野駅地平信号所火災の為列車の一部が日暮里駅に臨時停車することとなつたので、これに関して生ずる業務処理上の相談相手となすにあつたのであり、証人佐久間芳三の供述によれば「駅長は遠いので近い被告人中山を呼出した」というのであるから、助役としての勤務をなさしめんとしたものと解すべきである。而して、被告人中山の検察官に対する昭和二十七年七月二十一日附供述調書には「私は助役で駅長を補佐する職務がある為色々な点で私に相談する気で呼んだものと思つた」とあるから、被告人中山もその点を諒知していたものと認むべきである。証人渡辺藤吾、鈴木馨の供述並相被告人川田、被告人中山の供述によれば、助役は平常勤務としては京浜山手ホームにて客扱をなし且つ駅長を補佐していたこと並本件事故当日、被告人中山は出勤後、相被告人川田並運転係佐久間芳三より火災の模様、列車の運行関係のことなどをきき勤務上の打合せを約一時間に亘つてなした後七時過頃より京浜山手線ホームにて客扱をなしたことが認められる。証人渡辺藤吾(第二十九回)は「中山は川田と合議した上、中山が山手ホームの客扱を担当したと思う」と供述し、被告人川田の検察官に対する昭和二十七年七月十七日附供述調書には「助役代務として事務の引継ぎをなす時も特別な事のない時はただ『願います』というだけであり、駅長が帰る時の引継も同様である」とあるので、被告人中山が出勤して相被告人川田等と打合せをなしたことは、助役としての補佐責任を果して居ることであり、京浜山手線ホームの客扱をなすこととなしたのも助役として駅長事務の代理をしたものと認むべきであつて、これは駅長代理者たる川田が夜間にて助役事務担当者のいない状態を強化すべく、被告人中山に助役事務を担当せしめたと解すべきものである。然るところ、前出服務規程第一条には「助役ハ駅長ヲ補佐シ又ハ之ヲ代理ス」と定められて居り、昭和三十一年九月五日附国鉄副総裁の回答並証人郡司農衛(第三十一回)の供述によれば、助役が駅長を補佐する職責は、その職務についた時に当然に生じ、駅長はこれを全面的に免ずることは出来ないというのであるから、被告人中山は出勤後相被告人川田より相談を受けた時から助役としての職責を負い、同時に駅長代理者たる相被告人川田を補佐すべき責務を負うこととなるのである。

第六、本件事故と内圧との関係。

本件跨線橋の側壁の破損が内部よりの人圧によるものであること並その内圧は四〇〇瓩内外のものと推定すべきことは前記(第四)認定の如くであるが、右四〇〇瓩の内圧を生ずる事態の測定は極めて困難であるといわなければならない。昭和三十一年九月五日附国鉄副総裁回答書添付資料(2)「日暮里駅南(側)跨線橋の模型による実験(人圧)報告」は松下第二鑑定書によれば、側壁と支持物間の摩擦力との調整の点を除けば学理上の欠陥はなく、その数値に「一・一三」を乗ずれば真の加圧力を得られることが認められる。依つて右報告書の数値を修正すれば(一)背面で寄りかゝつた場合は五〇人で約三四〇瓩(二)前面より寄りかゝつた場合は四〇人で約二九〇瓩、五〇人で約五〇〇瓩(三)前面より圧力を加えた場合は三〇人で約五〇〇瓩(四)背面で圧力を加えた場合は二〇人で約三二五瓩、三〇人で約五三四瓩の圧力を生ずることが認められる。右実験は平均体重五四瓩強の建築工手によつてなされたものであるが、本件事故当時跨線橋上にいた人々は老若男女の混合であり、背面より寄りかゝるもの、前面より寄りかゝるもの、更には押すもの、押し返すものの複雑なる様相であつたのであるから、其の圧力の数値は単純には測定し得ないのである。

松下第二鑑定書には「押し返す力が押す力に比して少人数、劣弱である場合といえども、押す力よりも条件よく、力が時間的に一致して出る場合には一時的にしろ押し返す合力が押す合力に打勝つことが起り得る反面、押す力は結局のところ総合的には優勢であるから何回かの波状の起伏を示しつゝも遂に側壁破壊を惹起する程度の圧力を生ずるに至つた。本件の場合にはこのように推定される」とある。更に右鑑定書には「自から押したり押し返したりすることを行わない群衆及び押す衆力に抗して押し返そうとする人が、密集状態で自分の周囲に接している人々を支えとして、これらに体を預けつゝ押し返す場合は力を出すというよりも単に後方からの力を前方に伝える媒体としての役をなすのみで側壁に及ぼす圧力の増減の効果は微弱」であり「押す衆力に抗して押し返そうとする人が、側壁を体の支えとして、これに寄りかゝりつゝ押し返す場合には、衆力の増大と共に押し返す力も増し最大は自己の体重の二倍程度までの力を発揮する。この場合この押し返す力はそのまゝ側壁に及ぼす圧力となる」とあり、又「本件の破壊側壁の幅は内法で約二・五二米であるからこの側壁に押しつけられた人数は平均して九人という実測値である。証言によれば該橋上の混雑は身動き出来ぬ程度と認むべきであるから、側壁に接していた人の体重を平均五〇瓩として側壁をを圧した全力は約二三〇瓩程度と推定される。右圧力は波状の推力であるから静的加力の場合よりも荷重効果は大である」とある。右鑑定の結果によれば、本件事故当時側壁に接していたと推定される九人の体重を平均五〇瓩として、押し返そうとして側壁を圧した全力は約二三〇瓩と推定されるというのである。然るところ、証人石鍋昇、岡崎育代、西江明子、三瓶知子、内藤和子、小松義男、大塚輝夫、諸井悠章の証言によれば、押したり押し返したり波状的な動きであつたということが認められるから、側壁に接していた九人並同人等に接していた数人の人々はほとんど同時といつてよいほど力を合せて押し返したものと思われるのであるが、前出報告書によれば、各人について(一)背面より圧力を加えた場合は一三・七瓩乃至一八・八瓩(二)前面より圧力を加えた場合は一三・九瓩乃至二〇・五瓩の加圧となることが認められるから、男女混合の状態等を勘案すれば、少くとも一人当一三・七瓩の圧力を以つて押し返したと思われるのであつて、四〇〇瓩の圧力は側壁に接した九人と同人等に接した十数人の人々によつて生じたものと解し得るところである。而して、この押し返しに対して更に押した全圧四〇〇瓩は、右証言によれば多くの人々はたゞ揉まれていたことが認められるからこれらの人々は単なる媒体と見るべきであり、床面を支えとして故らに押した人々の圧力は一人当一八瓩乃至二〇瓩であつたと認むべく、その数値は二〇人乃至二二人位と推定すべきであろう。

従つて、本件事故の原因たる内圧は二十数人の故らに押した者を基として惹起されたものと認むべきである。

第七、内圧と被告人川田勝次、中山鹿之助の乗客誘導義務との関係。

本件事故の起きたのは当日午前七時四十四分三十秒頃であるが、同時刻に南跨線橋上に居た乗客が下車したと推定せられる電車並列車は昭和二十七年七月十七日附日暮里駅長作成の「列車、電車発着状況」によれば(一)高崎発上野行七三四列車(七時四十二分着(二)松戸発上野行七三四電車(七時四十三分三十秒着)(三)取手発上野行六一八電車(七時三十九分三十秒着)であり、その他に京浜山手線の電車より降りた客もある。而して、事故直前、右諸車より下車した客の中南跨線橋を利用した客数につき、証人佐久間芳三、木村光男の供述によれば(一)の列車より約二〇〇名(被告人川田は二〇〇名位下車し、内六割位が南跨線橋を利用したと供述)(三)の電車より三〇〇名位であり(二)の電車は通常八、九百名位下車しその三割位が南跨線橋を利用するを例として居ることが認められ、証人山田欣次の供述によれば、事故直前に山手線ホームより南跨線橋上に上つたものは四〇名位であつたことが認められる。従つて本件事故当時、南跨線橋上には七八〇名前後(川田の供述によれば七〇〇名位となる)の乗客が居た如くであるが、松下第二鑑定書によれば、当時南跨線橋上にいたという証人等の混雑状況について述べたところを参酌検討すれば、約四九〇人乃至五六〇人位の客がいたものと推定すべしとあるからこれによるのが正当である。然るところ、右鑑定書には「人員の数のみでは事故発生に対して問題とはならない。たまたまその中に数十人の押すものがあつた為に、しかも押すものと押し返すものとがあつて、両者の押し合となつてしまつたことが内圧増大を誘発する結果を招いたのである。換言すれば、群衆の中で互に押し合つた数十人の者が、内圧を増大せしめた原因となつているのであつて、他の大多数の者は、その媒体をなしたに過ぎないといえるのである。故に、若し互に押し合う者の数を一定にして置いたならば、他の媒体的群衆の数を半分以下に減らしても同程度の内圧が生じ得ることは疑う余地がない」とある。検察官は起訴状に於いて上野地平信号所の火災事故の為日暮里駅に臨時停車することとなつたのでそれより降車する客のあるべきことを指摘しているが、本件事故当時臨時停車したものは前記高崎発上野行七三四列車のみであり、該列車より下車した客で南跨線橋を利用したものは約二〇〇名(川田の供述によれば一二〇名位となる)であつたから、右鑑定の結果に徴すれば、この人員の増加は本件事故発生の原因たる内圧の数値には影響なきものと解すべきが如くである。然るところ前記押し合つた数十人は他の群衆との関係に於いて、即ち自からの自由なる通行が阻止せられたこととの関連において押し合をなしたものと推認せられるのであるから、該数十人の行動を検討する必要があるのである。

青木大和の司法警察員に対する供述調書には「今日は折悪しく汽車と常磐線電車が一緒に到着したので跨線橋の混雑は大変であつた。南跨線橋の上は山手線の方向に行く客が多く一方交通の状態で、隙間のない混雑で、進んで行くにも自分の意思で歩く事は出来ず、押され乍ら動いて行く有様であつた。跨線橋をやつと渡り切り右に曲ろうとしても、後から押されて曲ることが出来なかつた」とあり、植竹秀吉の司法警察員に対する供述調書には「本日午前七時四十分頃日暮里駅に下車したが、南跨線橋は普段と変りなく相当混雑していた。橋上を歩いている時中間の上野発小山行きの列車上り列車の誤認の如し)が着いたので、いつもと違つて沢山の人が下車して上つて来たので橋上は人で一杯となつた。山手線ホームから常磐線ホームに行く人も少しあつたが押されて身動き出来ないようであつた。私は内廻り電車が上野方面から来ることは下車した時知つていた」とあり、中山敏彦の検事に対する供述調書には「私は日暮里駅で下車し乗換の為南跨線橋に上つたが、上り口のところは下りる人と上る人で混合つていた。橋上はいつもより人が多くて、押されて、足ぶみ程度に少しづつ進んだ。(イ)(東北線上り線の上の辺)の所では押し返しの波を打つていた。少し行つた時内廻りの電車が鶯谷の方から入つてくるのを見た。(イ)の手前にいた時前の方で『押すな』という声をきいた」とあり、証人山田欣次は「私は当日京浜山手線ホームの客扱をしていたが、七時四十四分三十秒発桜木町行が発車した頃の、南跨線橋階段上り口附近は平素より客は多かつた。右電車が発車して間もなく山手線内廻り電車の警笛をきいた。七時四十分頃は常磐線が着いたので急に混んだと思う。右桜木町行の電車は少し遅延し平素より幾分混雑した。常磐線の方へ行く客は四十人位いたと思うが、その客は階段を上り切つた辺りで常磐線より来た客とかち合つたと思う」と供述し、証人石鍋昇は「私は通学の為日暮里駅で山手線に乗り換え、朝はいつも南跨線橋を利用するが、橋上は混むので大体そろそろ歩行する位だ。当日は橋上は平素よりいくらか混んでいた。〈1〉(山手外廻り線の上の辺)で歩行が遅くなつたが、京浜山手線ホームより上つて来た客もあつた。〈2〉(山手線ホームに降りる階段の上で、橋上の突当り上野寄りの隅)の所で歩けず待つた。そこまで押されるようにして行つたが、尚も後から押して来たので二・三回押し返した。押したり押し返えしたり続けていると一時強い力が加つて壁が破損した。〈2〉の所では上つて来る人と下りる人とで一ぱいになりいくらかづつ下りて行つた。〈1〉の辺りから押して来るようであり、意識的に押しているようにも感じた。私も他の人も押すな押すなと云つた」と供述し、証人岡崎育代は「当日日暮里駅までの電車(常磐線)も特に混んでいたが、日暮里駅の南跨線橋はいつもより混んで居り、〈1〉(廻送下り線の上の辺)の所では前に進めぬ位混んでいて、反対に行く人は通れない状態であつた。常磐線の隣りのホーム(東北線上り)に列車が着き、人が階段を上つて来たので混んだ。山手線ホームへの階段を一段位下りた時((2)点)メリメリと音がしたが、その頃十人位上つて来る人がいたが上れないで途中で止つていた。私は後より強く押してくるので怒鳴つたが誰もうけつけなかつた。(1)の辺より押して来たと思う。」と供述し、証人西江明子は「当日常磐線で日暮里駅に下車したが押されて下りる位混んでいた。南跨線橋に上るときもわりに混雑していた。橋上では次のホーム(列車上りホーム)のところで急に混んだ。反対にこちらに向つて来る人もいた。押され乍ら進み(1)(東北線上りの上の辺)で止つてしまつた。押すな押すなという声をきいた。(2)(列車下りホーム階段の上の辺)では後より押されぱなしで押し返しはなかつた。(2)で自殺だ後れという声をきいた。」と供述し、証人三瓶知子は「当日南跨線橋に上る時も上つてからも混み具合は普段と変らない。途中のホームから上つて来る人もいたので混んだ。押したり押し返されたりして進んだ。(1)(列車下りホーム階段の上の辺)で事故が起きたが、その手前から微かに動く程度でほとんど止つていた。今までにこんなに混んだことはなかつた。私の前でも後でも押すな押すなという声がした」と供述し、証人内藤和子は「当日南跨線橋を上る時は揉まれる程度に混んでいた。(2)(列車上りホームの上の辺)で混み出し、押され乍ら進んだが(1)(山手外廻り線の上の辺)で事故が起きた。途中のホームから列車の客が上つて来たので混んで歩くのがにぶつた。(2)では反対に来る人もいたが(1)では行くのみだつた。橋上では押したり、押し返したりして進んだ。私は当日は一台早い電車であつたが、いつも乗る次の電車ではその日位の混み方は度々あつた」と供述し、証人小松義男は「私は当日朝六時十二分熊谷駅発の列車に乗つたが、これは少し遅れていたと思う。大宮駅では普段は電車に乗り換える客が下りるので通路がすくのだが、当日は上り電車故障の為客が汽車に乗り換えたので、窓より入つたり、デツキに吊下つたりして、珍らしい程満員となつた。赤羽駅で上野信号所の火災をきいたが余り下車しなかつた。日暮里駅に着くと乗客よりこの列車はここで打切りになるとかいうことをきいた、そこで乗客の半数位は下りたと思う。この列車は東北線上りホームに着いた。南跨線橋を上る時も可成り混雑したが、(2)(列車下りホーム階段の上の辺)で進めなくなり、足を上げると下せない位であつた。山手線ホームに下りる階段の下り口のところで事故が起きたが、その時は下から上つて来る人達と揉合つていた。そこでは足を上げると独りでに押し返され行動が自由にならず前後に押し合う状態で、苦しいという人もあり、下から上つて来る人も頑張つていたので階段上に圧力が掛つていた。階段を下りる人達は扇形となり上る人達は上が狭く下がひろいという状態であつた。私は(3)(階段下り口の中央辺)にいたが余り揉み合うので何か起きそうに思い下りようとしたが下りることは出来なかつた。その瞬間ビリビリと音がして上の方が明るくなり私は階段の隅(側壁北隅の辺)へ持つて行かれ、急に軽くなり、電車の屋根に落ちた。山手線ホームへの下り口では法被、地下足袋履きの人達が無理に押し合い、群衆心理が働いたらしく、多少お祭り騒ぎの状態であつた」と供述し、証人大塚輝夫は「私は大宮駅より東京に通勤して居るが、当日は与野、大宮間で電車の故障があつた為大宮駅は乗降客で一杯であつた。私は高崎方面から来た汽車に乗つたが、それは機関車の石炭山の上まで人が乗つて居り、デツキにも人がいて乗れず窓から入つた。日暮里駅に停車したので乗客の半分以上が下りた。同駅では南跨線橋を通つたが、階段は人で一杯であり、橋上は押しくらまんじゆうのように押し合つていて止れなかつた。(2)(東北線下りホームの上の辺)では進めなくなつたが、そこで事故が起きた。(2)では押す者があり、前の方ではワツシヨイワツシヨイという具合で押し合つていたが、その人達は人夫風体の若い人達であつた。後方は(3)(東北線上りホームの上の辺)まで人が続いていた。私は橋上に上つた時山手線上り電車が来ていたので乗ろうと思い焦る気持になつた。」と供述し、証人諸井悠章は「当日高崎発の列車に乗つたが、車内はぎつしり混んでいた。大宮では大宮与野間で電車故障との放送があり、窓より乗る人もありステツプの持つ所まで人がはみ出す位混雑した。赤羽で幾分下りた。日暮里駅に停車したので、下りて、南跨線橋に上つたが、早く行つたので大して混んでいなかつた。橋上では(2)(列車下りホームの上の辺)の所で常磐線の客と一緒になつたので思うように進めなくなり、(3)(山手線外廻りホームの上の辺)で停止状態となつた。(3)では人は渦を巻いて居り、私は(4)(破壊側壁の附近)の所にもぐり込んだ。後から常磐線の客が押すので、苦しいという声がした。わざと押すのや面白半分に押すのも大分あつた。押す人は闇屋とか行商人が多かつた。(4)のところで事故があつたが、押すな押すなと言い合つて居ると後よりグーツと押されたので羽目板が外にそり反つたが、階段を下りかけていたものが押上げたので羽目板は元に戻つた、すると二回目に後より押し返したので羽目板が外れて、私は下に落ちた」と供述した。(第五図)右供述並供述記載によると南跨線橋上に、一時に多くの客が集つたのは(一)高崎発上野行七三四列車が臨時停車したこと並同列車は与野、大宮間で電車の故障があつた為平常より多くの乗客となつていたこと(二)取手発上野行六一八電車が遅延し偶然にも右列車とほとんど時を同じくして到着したこと並平常より客が幾分多かつたことによるものであり、南跨線橋上に客が停滞したのは(一)一時に多くの客となつたこと(二)京浜山手線(桜木町行電車)が遅延して前記東北本線列車並常磐線電車とほとんど時を同じくして到着した為右京浜山手線電車より下りた客で常磐線に乗り換える者と右列車並電車より京浜、山手線に乗換える客とが南跨線橋の階段附近にてかち合つたこととであり、右橋上で押し合いを激しくしたのは(一)橋上で客が停滞したこと(近藤証言は特に此の点を指摘している)(二)折柄京浜山手線上、下電車が入つたので客が先を争つたこと(佐久間芳三の検察官に対する供述調書)(三)野次馬的行動をする少数のものが混つていたことによることが認められる。本件側壁破損の状況を如実に表現しているのは証人小松義男、諸井悠章の供述である。小松証人は「階段の下り口の所では、下りる人達は扇形となり、上る人達は上が狭く下がひろがつて居り、下から上る人達が頑張つていたので階段の上に圧力がかかつていた。そこでは上る人達と下りる人達とが揉み合い、足を上げると独りでに押し返されて行動が自由にならなかつた。私は階段下り口の中央辺にいたが余りの揉み合で何か起きそうに思われたので下りようとした瞬間にビリビリと音がして上の方が明るくなり、私は階段の隅へ持つて行かれ急に軽くなり落ちた」と、諸井証人は「階段の上(山手線外廻りホームの上の辺)では客を渦を巻いていたので、階段下り口の側壁寄りのところにもぐり込んだ。後より面白半分に押すので、押すな押すなと言い合つて居ると後よりグーツと押されたので羽目板が外にそり返つたが、階段を下りかけていた者が押上げたので羽目板は元に戻つた、すると二回目に後より押し返したので羽目板が外れて、私は下に落ちた」と供述している。即ち階段に於いて上る客と下りる客とがかち合い、階段上では後方より押される為渦巻き状態の動揺をしていた為、後方より面白半分に押したものと認むべきであり、かかる無法者の暴挙は橋上の客数というよりは階段の混雑と押すな押すなという制止の言葉によつて誘発されたというべきであろう。

検察官は(一)被告人中山、川田は上野駅地平信号所火災の為臨時停車をなし降車客が一時に多数となつて異常な混雑となることを予想し本件側壁附近に整理員を配置し適宜整理誘導をなすべきであつた(二)被告人中山は事故当時北側階段附近にいたのであるから速かに南側階段方面に移動して山田欣次に応援し客の整理誘導をなし南側跨線橋に上らんとする客を階段下辺りに於て一時進行を停止する等の措置を講ずべきであつたと主張する。由来客の整理誘導ということは、整理員の指示に従つて客が行動すること即ち客は秩序ある行動をなすべしとの自覚を持ち乍らも自らは大局を察知し得ない為整理員の指示に従つて左右、緩急、動止の行動を自主的になすことが前提であるが(然らざれば数人の整理員が数百人の整理をなすことは不能である。尤も人間を動物視し管理者の鞭の下に挙措するものと観ずれば別問題である)本件事故当時は客の多くは事態の推移に委せるといつた態度であり、一部の人々(前記認定の如く二十数人である)は「苦しい」とか「押すな」とかの叫声を意に介せず面白半分に押合つたのであるから、整理員の存否は問題外であつたというべく、かかる無法者の暴挙を措止し得るものは、一、二の整理員の制止ではなく、多衆の自主的制掣的行動であるといわなければならない。証人岡崎育代は「当日は余り多勢で混雑していたから跨線橋上に整理員が出ていても駄目だつたと思う」と供述しているが、前記各証言等によつて認められる混雑状況からすれば、岡崎証言は事実に符合するものと認むべく、仮に、破損側壁附近に整理員が配置されていたとしても、よく整理し得たとは解せられないのである。従つて、整理員を配置することによつてこの異常混雑を防止せんとすれば、常磐線ホームの階段上附近若しくは列車上り線ホームの階段上附近、少くとも東北本線下り線の上附近にて客の流れを停止せしめる等の措置をなすべきであろうが、流動性を最も必要とするラツシユ時に於いて、客の進行を停止することは極めて慎重であらねばならぬのであつて、京浜山手線ホームへの階段の状況を正確に把握しなければ軽々にはなし得ないところである。然るに跨線橋上の前記の箇所からは京浜山手線ホームは勿論、階段における混雑、状況は看取し得ないのであるから仮に整理員がいたとしても前記の如き措置をとることは極めて困難であり、常人としてはなしえなかつたといわなければならない。佐久間芳三の検察官に対する昭和二十七年七月十七日附供述調書には「南跨線橋の一番混雑する山手線ホームの階段の下あたりや、その上の陸橋の突当り辺に整理員を出して整理誘導をしておけば良かつた」とあり、山田欣次の検察官に対する同月十八日附供述調書には「私は当日ひよつとしたら南跨線橋の常磐階段の上あたりに整理員が出ているかも知れないと思つていた。………要するに私は駅としてあの時階段下と階段上に通行客専門の整理員を合せて二人でも三人でも出し、夫々押さない様に順序良く行動する様に連呼させ又、誘導整理していたならば恐らくお客さんは整理員が居ると居ないとでは夫々の取る行動が丸つ切り違うので、もつと秩序正しく行動してくれたものと思う。従つて私は整理員さえ出ていたなら仮にあの壁が強い弱いは別としてあの様に混乱させないで済んだと思う」とあるが、階段上のことについてはいづれも当該局面のみを他の事態と引離して観察したもので正当ではないのである。本件事故現場の混乱は(一)客が停滞したこと(二)京浜山手線上、下電車が入つた為客が先を急いだこと(三)少数の無法者の暴挙のあつたこと、によることは前記認定の如くであるが、証人小松義男は「階段の下り口の所では、下りる人達は扇形となり、上る人達は上が狭く下がひろがつて頑張つて居り、下から上る人達と下りる人達とが揉み合つていた」と供述し、証人山田欣次は「常磐線の方へ行く客は四十人位いたと思うが、その客は階段を上り切つた辺りで常磐線より来た客とかち合つたと思う」と供述し、証人石鍋昇は「(2)(山手線ホームに降りる階段の上で、橋上の突当り上野寄りの隅)の所では上つて来る人と下りる人とで一パイになりいくらかづつ下りて行つた」と供述し、証人岡崎育代は「階段を一段位下りた時十人位上つて来る人がいたが、上れないで途中で止つていた」と供述しているところよりすれば、階段に於いて客の流れが停滞したのは、常磐線方面よりの客と、京浜山手線で下車した乗換客とが跨線橋上でかち合つたことによるものと認められる。従つて佐久間芳三、山田欣次の供述調書にある通り階段下に整理員を置いて京浜山手線の乗換客を一時停止せしめておけば、階段に於ける下りる客の流は早くなり階段上の渦巻状態は生じなかつたであろうと推認せられるところである。然し乍ら右証人山田欣次、小松義男、岡崎育代の供述より見れば、京浜山手線の客が上る前から階段は非常な混雑であつたか、或は一列位で壁にそうて上れば上り得る状態であつたか判断に苦しむところであり、階段下に整理員が居たとしても果して乗換客を一時停止するの措置に出でたかどうか疑なきを得ないのである。山田欣次の右供述調書には「私はいつものように、南跨線橋の階段近くに行き外廻り、内廻りに乗り降りする客の整理をしていた。私は其処に出てからホームの混み方を見るといつもと同じであつたが、その中外廻り山手線が約五分遅れて入つて来たのでホームは一杯になりいつもより混乱した又その山手線が五分遅れた関係で常磐線の方から来た客がホームに溜つていて相当混雑した。その山手線が入つて直ぐ後から外廻り京浜線が入り客が降りた為ホームはその乗り降りで混雑し、階段は常磐線から降りて来る客と常磐線へ上つて行く客とでいつもよりひどく混んだ。私はホームの整理誘導で精一杯であつた為乗降客の整理までは手が廻らなかつた。………ホームでは外廻線のところ(東側)より内廻線のところ(西側)へ横切つて行くには客をかき分ける位の混雑であつた」とあるから、検察官主張の如く北側にいた被告人中山が、南側の山田欣次の附近に速かに移動して客の整理誘導に当ることは困難であつたと認むべきであり又仮になし得たとしてもなすべきではなかつたというべきである。蓋しホームに於ける客の整理誘導は証人鈴木馨、渡辺藤吾(第十四回第二十九回)の供述する如く客と電車との接触による事故の防止、電車の定時運転確保の為乗降の敏速に重点がおかれるべきであつて、次々と進入する電車を放置して、北方より南方の階段附近に駈けつけることはなすべからざることであるからである。又山田欣次は自らはホームの整理誘導で精一杯であり乗換客の整理にまでは手が廻らなかつたということより、整理員をおくべきであつたと供述して居るが、整理員が居たとしても果して一時停止等の措置がとり得たかどうか疑なきを得ないことは前記認定の如くであるのみならず、京浜山手線電車が遅延し、常磐線及び東北本線の客と階段附近にてかち合をなすという事態を何人が予測し得たであろうかということに思を至すならば、山田欣次が階段下に整理員をおくべしと述べたことは事後の思いつきというの外はない。若し本件事故の発生を予知したとすれば山田欣次といえどもホームの客扱を放擲して階段口に駈けつけ、階段へ上る客を停止せしめたであろうことは何人も諒し得るところであるから、被告人中山の責を問う前に山田欣次の職務懈怠を責めなければならないのであるが、これは山田欣次の不注意ではなく、何人も本件の如き異常なる混雑の発生を予測し得なかつたと認むべきである。

叙上の如くであるから本件の異常なる混雑は全く不測の事態であり而も側壁破損は混雑自体による圧力ではなく、無法者の暴挙によるものであつたというべく、被告人川田、中山が本件事故当日整理員を配置しなかつたことはサービス的には非難されるとしても、本件事故との関係に於いて刑責を問わるべき不注意とはいい得ないのである。

第八、結論

以上縷説した如く、本件側壁の破損は(一)田端寄りの添柱と古レールとの空間が填めてなかつたこと(二)二十数人の無法者の無謀なる行動とこれを制掣しない多衆の無自覚的態度の為であつたというべきである。

松下証言(第二十九回)によれば、若し田端寄りの添柱と古レールとの空間に飼物が挿入してあつたとすれば、添柱の廻転が阻止されるから前記第二の如き諸々の欠陥があつたとしても五・六百瓩の耐力(二〇〇瓩/米乃至二四〇瓩/米)を有していたことが認められ、松下第一鑑定書によれば、該側壁の用材は米松であつて繊維方向圧縮強度四二〇瓩/平方糎位、繊維直角方向圧縮強度二八瓩/平方糎位、繊維方向曲げ強度六八〇瓩/平方糎位で針葉樹材の平均強度を上廻るものであることが認められ、松下第三鑑定書によれば、田端寄りに於いて横木は添柱の切込に可成り深く入つていたことが認められ、前出証人山本輝男の供述並(日暮里駅南側跨線橋西側妻、添柱取付現寸図」及び被告人塩幡の検察官に対する昭和二十七年七月三十一日附供述調書によれば、添柱の切込は田端寄りのものは一四粍乃至一六粍であるのに、上野寄りのものは二四粍乃至三〇粍である為、横木が田端寄りの添柱の切込に多く入つていたとすれば添柱の廻転がなければ、内圧のみでは容易に脱落も切込部の欠損も起らないであろうことが認められるから、本件の如き四〇〇瓩位の内圧では脱落事故は生じなかつたものと認むべきである。而も右飼物を挿入することは施工上の常識であること前段認定の如くであるから、かかる嘆かわしい施工がなされているかどうかを、竣工後に於いて探究することは、専門係員のなすべきことであつて、一般的管理者即保守担当者のなすべきことではない。被告人粒良の検察官に対する昭和二十七年八月一日附供述調書によれば、上野建築区所管の建物は約二一〇〇棟であり、被告人塩幡の検察官に対する同年七月二十九日附供述調書によれば、田端分区所管の建物は五〇九棟であるが、かかる多くの施設を限られた人員によつて管理せしめるには、その管理方法を単純化し、その責務を明確にすることが必要であつて、すべてのことについて、万遺漏なきを期す態の細密なる管理方法をとるべしとなすことは、却つて本来の管理の責務を怠らざるを得ないこととなり、高度に分化された業務形態の下に於いてはとり得ないところというべきである。

従つて、国鉄首脳者に於いて、かかる施設は多くの乗客の利用するものであることに思をいたし、管理に万全を期し事故を未然に防止すべく誠意と熱意を以つて、科学的検討をなし、その対策を講ずべきである。

凡そ駅構内の跨線橋を利用するものは先を急ぐのが通例であるから誘導、整理もこの点に留意し、円滑に流れる如くなすべきであつて唯々事故の発生なからしめんとして客足を遅々となさしめることは避けなければならない。戦後一般的に客が多くなり、人々が野性化し、その挙措が粗暴となつたことから駅構内で客を誘導整理すべく木柵を設け、ロープを張る等の措置をなしているが(証人渡辺藤吾の供述((第十四回)))これは施設の拡充を等閑にし、責を乗客に帰せんとするものであつて、文明国に於いてなすべきことではないのみならず、却つて客の流れを阻害し、引いては無法行為を誘発することともなるのである。

由来階線橋は体育場でも競技場でもなく、単なる乗客の通路であるから、これが利用者は、施設の現状を認識し正しい利用態度を持すべく、突発的なる無法者の暴挙には、これを制掣する自覚的行動が望まれるのであつて、これなくしては、数名の駅員の誘導のみでは到底本件の如き不祥事を防止することは出来ないというべきである。叙上の次第であるから刑事訴訟法第三三六条に則り主文の如く判決する。

(裁判官 津田正良)

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